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正確かどうか自信はないけど、専門家はそういっている」「なぜなら、熊は出合い頭が一番危ないんだ。
虎やライオンとちがって、木の実を食べる熊は、自分から人や動物を襲って殺すことはしない。
むしろ臆病といってもいい。
ところが、出合い頭に顔を合わせたりすると、そうはいかないんだね。
自分が襲われるんじゃないかと思って相手を倒すんだ。
だから、山に慣れている人は腰に鈴をつけて鳴らしながら、歩く。
人聞が近づいているぞ、と熊に教えてやるんだね」「それでもぶつかってしまったら?」「そのときは観念して、石のように動かないことだ。
目もぱちくりしてはいかん。
じーっと睨んでいるうちに向こうは去って行った、という話を聞いたことがある」「そんなの、絶対にむりよ」「それならば逆に、うつ伏せになって息を殺しているしかないな。
そうしていると、熊はそうっと近づいて首筋のあたりに鼻をすりつける。
相手は死んだなと思えば、そのまま行ってしまう。
去り際に枯れ葉をかけてくれた親切な熊の話というのも、かつて聞いたことがある」「それも駄目だね。
とても怖くてできないよ」もっとスリリングな話があるよ。
熊とばったり出会ったある人が、必死に逃げたら、崖で行き止まりになっている。
飛び下りれば全身を打って死ぬかもしれない、かといって止まれば熊に襲われる。
さあ、絶体絶命だ・・・と思ったら、崖にがっしりした木が一本生えている。
とっさに、それに飛びついた。
追ってきた熊は、勢いあまってその人の肩ごしに谷間へ落ちていった。
「そんなの、作り話でしょ」「いや、熊を背負い投げで落とす」「ほんとかしら、それもむりよ」。
ついでにいっておくけどね、今の話は月の輪熊のことなんだ。
真っ黒で喉に白い三日月型のぶちのある種類、そう、さっき逃げて行ったのと同じやつ。
ところが、北海道へ行くとひぐまというのがいてね、これは茶褐色で体も大きく、停猛なことで知られている。
僕が帯広に近い池田町の町長室で見た剥製は、二メートル半もあったな。
こいつは平気で人間に向かってくるから、遠くに見かけたら早く逃げることだね」「まあ、こわい」「でも、ここにはいないよ。
さあ、相手が近づかないように、鈴でも鳴らすか」しまいにはそういう結論になって、鈴の代わりにみんなはにぎやかに話しながら、森のなかの散策を楽しんだ。
(ところで、玉原のロッジには忘れられない思い出がある。
熊ではなく、除雪機に足を噛まれて私は瀕死の重傷を負ったのだ)。
その日、一九八九年一月三十日、森林文化協会に移ったばかりの私は、同僚の案内で初めて真冬のロッジを訪れた。
豪雪地帯なので、冬の間に一度除雪をしないと玄関の屋根がひしゃげてしまう、と聞いた私は、ぜひ除雪作業を見ておきたいと思ったのだ。
関越道の沼田で下りて一時間あまり、しだいに雪が目立つようになった山裾から、急坂を登り切ったところに東電のダム管理事務所がある。
そこでわれわれ四人は雪上車に乗り換え、二キロ先のロッジまで運んでもらったが、心地の悪いこと。
がたがたと激しく揺れて、頭がおかしくなりそうだつた。
やっとロッジの玄関までたどり着くと、今度は豪雪のすごさに驚いた。
雪の深さは優に四メートルはあるだろう。
それを、三台の除雪機で排除しようと同僚たちは作業にとりかかった。
私は手持ち無沙汰なので、雪山を上から崩してやろうと思いついた。
「危ないから、むりをしないで」と同僚からいわれたが、四メートルの雪山によじ登ってスコップを振るうと、気持ちがいい。
面白いように作業がはかどる。
ただ、日差しが強くなるにつれて、きらきら光る雪の表面が溶けはじめてきた。
少し危ないかなあと思いつつ、スコップを踏んだ途端、足もとが崩れて、私はどうっと横倒しに落ちた。
一瞬、何が起きたのかよくわからなかったが、雪の壁と除雪機に挟まれているのだと気づいて「おーい、とめろ」と悲鳴をあげた。
運転していた同僚がびっくりして機械を止めたときには、もう右の腔はずたずた、右腕も傷を負って、あと三秒遅ければ一巻の終わりというところだった。
応急に毛布を巻いてもらい、雪上車、乗用車、救急車と乗り継ぎをして二時間、なくてはいけないので、失神している暇もない。
不思議と出血が少なかったが、あまりにびっくりしたせいか寒かったせいか、とにかく体ががたがた震えた。
やっと沼田市内の病院に着いて、待ち構えた医師による手術がまた二時間。
「二十七針だ、何か気になることは」と聞くので、「腹が減ったんですが」といったら、「だめだ、点滴だ」と怒鳴られた。
ここで二十日間、東京の病院に移ってさらに二十日間療養し、そのあとのリハビリを経て、好きなテニスができるまで回復したのは、二一カ月後のことである。
もうひとつの思い出は、私たちの財団が贈呈していた森林文化賞の受賞者が天皇皇后両陛下にお招きを受けたときのことである。
一九九O年から九三年まで四回、私は受賞者を御所へ案内し、森づくり苦心談の司会をつとめたが、九二年の時は懇談のあと両陛下とNさんがユウスゲの咲く庭に案内して下さった。
きれいな白樺を見ながら私が玉原のブナ林のことをお話しすると、皇后さんが、「ブナの幹に耳をつけると、水の上がる音が聞こえるそうですが」とお聞きになった。
よくご存じで、と感嘆した私が、「子供たちに聴診器で聞かせています」というと、今度は天皇さんとNさんが、「え、聴診器で」と目を輝かされた。
九二年の七夕の日であった。
実をいうと、私は戦争中ちゃきちゃきの軍国少年としてすごし、敗戦の日の夜は切腹しようとまで思い詰めたことがあった。
そこから立ち直るまでにどんなに苦しんだことか。
わけでも心に重くのしかかってきたのは、明治憲法のもとにおける「天皇制と戦争責任」ということであった。
これは、今でも変わっていない。
しかし、新憲法のもとで育まれた今の皇室は全くちがうことが、四回の訪問でわかった。
とても気さくなのである。
明るく、自由な雰囲気、といってもいいだろう。
まず私が四人の受賞者を紹介し、各自五分ずつ緑化の苦労話をしたあと質疑になるのだが、いつもざっくばらんだった。
やがてお茶が出ると、天皇さんがアラレを口に放り込んでぽりぽり。
われわれも真似をしてぽりぽり音をさせながら、やりとりがつづく。
皇后さんも宮さん方も実によく勉強しておられる。
そして、質疑に熱中しているうちに、いつの間にか一時間の予定が三十分ものびてしまうのだった。
話は変わるが、その天皇さんがかつて、I天皇の母、百済武寧王の血を引く高野新笠に触れて「韓国との縁を感じている」といわれたことがある。
また、園遊会で君が代を歌い、日の丸を掲げる運動」を自慢げにいった棋士に「強制にならないことが望ましいですね」といわれたことを新聞で読んだ。
私は、なんと新鮮でリベラルな方なのだろうと感じた。
沖縄などへの慰霊の旅、中国訪問と、平和行脚も精力的にこなされている。
緑化事業へのご熱心さも、その延長線上にあると私は思っている。
欽定憲法下のように堅苦しい尊称を奉るのは、皇室を雲の上に祭り上げ、大衆から遠ざけることになるのではないか。
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